将よく将を知る
甲子園29勝の名将・栽弘義さんの追悼番組を放送することができた。
放送後、ご霊前に報告に行ってきた。
放送の中で、「監督はずっと怖かった」と石嶺や教え子達が言っていたので、
なんだかワタシも写真の中から怒られそうな気がした。
まあグラウンドでよく聞いた「タワケッ!」という声も飛んでこなかったので
喜んでいただけたのではないかと思う。
名将といわれる人は、よく「相手」を知っている。
それはまた「名選手」でもおなじことである。
甲子園で通算20勝を挙げ最近引退した宇部商元監督の玉国光男さんは、
石嶺時代の豊見城を見て、栽監督のもとに教えを乞うため来沖したと言う。
その後、玉国さんは宇部でウェイトトレーニングをはじめ、山口の野球に
一大改革をし、準優勝校にまで上り詰めた。
宇部商と沖水は平成2年夏。大野倫投手のとき対戦し、沖水が勝った。
「いやあ、恩返しはできませんでしたけど…」
玉国さんは苦笑いしていたが、栽野球は山口にも根付いていったのである。
久しぶりに準優勝の楯を見た。
確かに銀の楯で、「金」ではない。
だが、この2つの楯の向こうに、どれだけの歴史が隠れていることか。
グラウンドもなく、ショートに砂場、外野のフェンスをロープを持った人間が形作っていた時代。
せっかく持ってきた甲子園の土を、アメリカの法律の下、海に捨てられた時代。
出場するだけで、沖縄代表にスタンドから大きな拍手が贈られた時代。
そして、もっと前の、ボールを手榴弾に持ち替えて、幾多の〝可能性〟が戦場に消えた時代…
栽さんは、勝った負けたのはなしをするときに、必ず「先人の苦労」の話をした。
筑紫哲也さんが「スポーツでも経済でも、人間のやることで時の政治び結びつかないものはない」と言っていた。
沖縄にとって野球は特別の存在である。
政治より早く復帰し、経済より早く本土並みになり、大臣より早く決勝戦に進出した。
出演した人たちの思いは一人ひとり深かった。