沖縄高校野球の原点?

家主

2006年02月09日 21:18


ロッカーを整理していたら、1975(昭和50)年のスコアブックが出てきました。



1975年4月4日、阪神甲子園球場。
第47回センバツ高校野球準々決勝。
豊見城対東海大相模。
7回に新垣のタイムリーで1点を奪った豊見城が虎の子の1点を
守ったまま9回裏、東海大相模の攻撃。
東海大相模の監督は、後に東海大甲府の監督となる村中投手。

そして3番に座るのは、現ジャイアンツ監督、原辰則。
原、津末の3,4番コンビの破壊力のすごさは、画面でも圧倒されるものがありました。

豊見城のマウンドに立つのは後にジャイアンツに入った赤嶺賢勇。
栽監督が、沖縄高校野球の最高傑作と賞した右腕です。

8回まで強打の東海大相模をわずかに4安打。
11個の三振を奪っていました。

9回裏も2番森をピッチャーゴロ。
原辰則をこの日二度目の三振に仕留め、2アウトランナーなし。

ところがドラマはここからでした。


勝負をあせったのでしょう。
4番津末のツーベースから、5番佐藤にもセンターに運ばれ、あっという間に同点。

なおも綱島のヒットで2塁1塁とされ、
最後は7番山口の打球がライト線に・・・

それも確か、ラインの白い煙が上がったようなラッキーヒットでサヨナラ負け。
赤で画くヒットのマークが乱れていました。



この負け以来、沖縄高校野球には「甲子園の魔物」が取り付くことになります。
そしてその魔物は、最強といわれた仲田幸司ー仲田秀司バッテリーの興南。
バズーカといわれた剛速球投手・上原晃の沖水にもついて回りました。




時は流れて…

今年の代表・八重山商工の選手たちは少年野球時代から「勝つ味」を知った選手ばかり。

「負ける気がしない」というそうです。


甲子園の魔物を沖水、沖尚、宜野座といったチームが追い払ったあと、
最南端校の球児たちはスコアブックにどんな記憶を残してくれるでしょうか。

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