久しぶりの友人

家主

2006年05月17日 21:00

きょう久しぶりに新垣諭さんに会った。
ご存知だろうか、元IBF世界バンタム級チャンピオンである。


これは新垣諭さんに貰ったお土産である。
なぜお土産しか出てこないかというと、
写真を撮る暇が無かったのだ。

アマチュア時代、インターハイで後のWBA世界フライ級チャンピオンレパード玉熊を破り優勝。

このとき(昭和56年)の沖縄の高校ボクシング界は史上最強で、
Lフライの新垣諭(沖水)、フェザー級の砂川恵信(興南)、ライト級の伊計博光(沖工)、ウェルター級の平仲信明(南農)、Lミドル級の屋嘉寿男(中央)、Sヘビー級の知念健治(沖水)と実にインターハイで6階級を制した。

そして新垣は、鳴り物入りでプロの世界に飛び込んだ。


人の人生はどのように転ぶかわからない。
日本ではボクシングの世界タイトルといえばWBCかWBAという、南米に本部を置く組織である。
IBFはその意味で異端であった。
新垣が入ったジムは、当時台頭してきたIBFを選び、日本協会と反目した。


デビュー6戦目でいきなりジュニアフライ級のベルトをかけて世界戦を戦う。
しかし、彼にとって過酷な減量を強いられるジュニアフライ級は厳しすぎた。
それでもフィリピンの強豪・ぺニャロサを相手に、倒れることなくフルラウンド闘った。


そして翌年、1984年4月、おなじフィリピンノのエルマー・マガラーノを8回TKOで降し
IBFバンタム級の王者になった。

その後、1回防衛したものの、2度目の防衛に失敗。
そのあと、大たい骨が壊死する奇病に取り付かれ、
足に2本の巨大なボルトを入れうという大手術と半年もの入院生活を経て
1990年に奇跡の復活を果たし、
IBFインターナショナルジュニアバンタム級王座を獲得する。

しかし、それが彼が最後に上がったリングになった。

新垣は「ボクシング界の嵐」に翻弄されてしまった。
しかし、今であったら、全く逃げることのないファイトと端正な顔つきで、、人気者になったに違いない。

今でも沖縄出身の世界チャンピオンは「6人」とされることが多い。
具志堅、上原、渡嘉敷、友利、浜田、平仲の6人である。
しかし、新垣諭は確かにベルトを巻き、世界の頂点に立った沖縄7人目の世界チャンピオンなのである。
彼の後、浜田、平仲と続いたが、以来14年沖縄出身の世界チャンピオンは生まれていない。

名護明彦は「10センチ」の踏み込みが足りずに2度破れ(まだ再起を目指している)、
仲里繁はチャンピオンのあごを折るハードパンチを持ちながら、
3度の挑戦も報われず、リングを去った。

ベルトに手が届くところまで行きながら、運命の女神が微笑まなかった男。
女神の微笑みに気づかずにチャンスを逃しす男・・・。

いろいろいるであろう、

最近は喋りのうまさも、ボクサーの条件に入ってきたようだ。
しかし、一言も文句を言わず、ひたすらリングで戦い、静かに去っていった
野武士のような世界チャンピオン「新垣諭(しんがきさとし)」がいたことを
忘れないでほしい。