2007年05月08日

名将逝く

沖縄水産の栽弘義監督が亡くなった。
65歳。まだ鬼籍に入る年齢ではない。

監督生活43年。その間甲子園で監督として29勝。
ここ数年、引退がささやかれる中で、
なんとか30勝目を甲子園で・・・という気迫、
この名将をして甲子園出場にかける強い思いが伝わってきていただけに残念でならない。


高校野球関係者の中に、
「もうあのスタンスはもう時代に合わないよ」
と公言する人がいて驚いたことがある。

なぜなら、沖縄の高校野球の旧時代を刷新して
新時代を築いてきたのは栽弘義その人だからである。
しかも、その「監督力」は長く追随を許さなかった。

確かにいろいろ言われたことはあった。
だが彼がリードしなければ誰がリードしたというのか。

「道具」がない、「情報」はない、「距離」がある…。
沖縄高校野球の三重苦を彼は「監督力」をあげることで克服しようとした。

紙を丸めたボール、まだ誰もやっていなかったウェイトトレーニング…。

大学に入るまで野球付けで「本」が読めなかったという。
彼は「童話」を読むところから始めて、専門書まで読み解くようになったという。
みんなが「手の届かない存在」と思っていたメジャーリーグをずっと注目し、
練習法なども研究していた。

毎年のように生徒に話していた言葉…

「野球はもう90%は解明されています。これをやっては勝てない、これを失敗したらいけない…」

のこる10%を追い求めた人生だった。


私も栽さんに、本当の野球の面白さを教えてもらった。

「監督が何もしないで勝てる試合が最高の試合」
と常々おっしゃっていた。
場面場面で自分が何をやれば「勝利」につながるか自分で考える。


「何かをやろうとする子になって欲しい」


数年前、甲子園を沸かせた宜野座高校は、それを実践した。


「勝つために集める」

そんなことが問題になった最近の特待制度問題。
結局、子供たちの「その後」のために何が出来るかだと思う。

名将といわれる人は何人かいる。
だが、一文字の監督は、地域にこだわって名将になった。

四国の蔦〔元・池田監督)、そして沖縄の栽である。

本人は
「沖縄という意識は全くない。それがあったら沖縄の野球は変ってなかったんじゃないかな…」
とおっしゃったが、
栽さんほど「沖縄」を意識した人はいないだろう。

「甲子園で優勝しなければ、沖縄の戦後は終わらない」と言ったと言われ、
4歳のとき、母の背中で受けた砲弾の破片の傷は、カンパチになった。

しかし栽さんは、そんなことは言っていないと原価に否定するとともに、
監督・栽弘義を「沖縄の戦後」と結び付けられるのを殊更嫌った。

「野球」に生きたのである。

水産が準優勝した年、かつて沖縄初の甲子園出場からの帰り、
那覇港で「甲子園の土」を捨てたとされる貿易官の娘さんからお礼のはがきが来たという。

「これでやっと終わりました、ありがとうございました」と。

5月11日、栽さん66回目の誕生日に、告別式が行われる。
合掌。




Posted by 家主 at 21:33│Comments(5)
この記事へのコメント
今朝になってTVのニュースで訃報を知りました。
驚くとともに、とても残念に思います。

私は中学生のとき
甲子園の中継で裁監督をはじめて知りました。
また、同じく高校野球の魅力も

そのとき初めて
教えたもらったのだと思います。

お仕事で接する機会が何度もあったにもかかわらず
雲の上の存在で、

きちんと会話をした記憶はありません。

なぜか祖母に似ている顔立ちには
親しみもありましたが・・・。

人は無くなったときにどれだけの人が
その人の死を惜しみ、悲しんでくれるかが
その人の生きた証。

以前、土方さんがそう話していたのを
ふと 思い出しました。

監督は多くの方々に惜しまれ
旅ただれたのでしょうね。

ご冥福をお祈りいたします。


土方さんも血圧が高いようですが
くれぐれもお体を大切に
末永く活躍ください。
Posted by こりんご at 2007年05月09日 12:57
土方さんこんにちは!裁監督の訃報、寝耳に水でした・・・。
体調がお悪いというのは風の噂で聞いていましたが、
まさかこんなことになるなんて・・・。
私は世代的に沖水時代しかリアルタイムでは知らないんですが、平成2年、3年の夏の準優勝は強烈なインパクトとして残っています・・・。
平成2年の決勝戦は天理戦で0-1でしたよね!ラストのプレーはレフト線ギリギリの強烈な当たりをレフトに好捕されて終わりました・・・。
その日の熱闘甲子園では「あと少しバットの芯を捕らえていたら・・・」というキャスターのコメントが印象に残っています・・・。
平成3年は大野倫投手が奮闘しての決勝戦は大阪桐蔭戦でした!一時は大量リードを奪いましたが、大野投手が力尽きて終わりました・・・。
当時の大会会長の朝日新聞・中江社長が閉会式で「大野投手の773球の熱投を忘れない・・・」とコメントしたのを覚えています・・・。
沖縄の高校野球界に偉大な功績を残された裁監督にただただ合掌・・・。
高野連葬とかお別れの会とかないんでしょうか・・・。
それに値する方だと思いますが・・・。
Posted by がじゃっちi at 2007年05月09日 13:40
えー・・何故か?広島県勢(広陵)によく当たり・・対戦すること、たたあり・・・

こちらが先に3点リードでも向こう側は7回辺りで、顔色1つ変えず淡々と回を重ねる姿に、逆にこちら側が焦り出し・・最後逆転負けすること・・しばし・・・

それがいつしかその(広島の関)を、難なくこなせる程の力を重ね・・・

「甲子園常勝チーム沖縄」の看板を背負う程に!成長せしめたのー・・・

豊見城から水産に移るさいに・・・
「豊見城で10個以上あったブロックサインを・・多分、水産生には~・・これ位んが限度だろ~!?・」・・ッーことで・・「サインを3個だけにした!!」・・・

      えー・・当時巷ではやりの、かなり受けるギャグ?!・・でしたが・・・

しかしー・・65とは・・若かねー・・まだまだ!・・

小禄の居酒屋辺りに、毎夜毎夜・・現れて飲んでる情報は入ってたけども・・

なんか・・「太く、ドンと!ガジュマルの木!」みたいな人生でごわしたのー・・
Posted by ホーム・プレート。 at 2007年05月09日 16:21
忘れもしません。
平成2年の甲子園決勝・・・最後はレフトライナー。

当時はまだラッキーゾーンがありました。
ややグランドより低くなっているベンチから見ていた神谷投手には
入ったと見えたといいます。

しかし、前日まで吹いていたライトからレフトへの「浜風」が、
この日に限って『六甲おろし』でした。

あの時浜風は吹いていたら・・・
歴史が動いたのかもしれません。
Posted by 家主 at 2007年05月10日 01:20
印象に残る試合は、やはり平成2年の天理との決勝戦。
大会後、酒を一緒に飲む機会があった。
「うちの選手の、あんな“ぜったいに捕れない・いいアタリ”を、天理のバカタレ・レフトが“あんなファインプレー”しやがって」と、おしゃていた。
たしか「あの子はヤマトから来て一生懸命がんばったんだよ」とも

それから、しばらくして私立が本格的に野球に力を入れる様になって、
選手集めの苦労話も聞かされた。
現代っ子との、いろんなギャップも聞いた。
沖縄水産高校を背負ってらっしゃる一面も・・・・・・。

読谷や前原が出たころ、「やればできる! どこの学校でもチャンスはあるんだよ」と目を細めてお酒を飲んでおられた。

栄町や小録や西崎で縁があって、ご一緒したりした。
が、今年になって顔を見せなくなったと聞く。
3月の初め頃、入院中である事と関連する監督人事を聞いた。

“野球”と“お酒”と“ユンタク”好きな栽先生。
もっともっと、甲子園での采配を期待していたのにただただ残念である。
合掌。
Posted by 奥武山野球場 at 2007年05月10日 02:45
 
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