2007年05月18日

将よく将を知る

将よく将を知る

甲子園29勝の名将・栽弘義さんの追悼番組を放送することができた。
放送後、ご霊前に報告に行ってきた。

放送の中で、「監督はずっと怖かった」と石嶺や教え子達が言っていたので、
なんだかワタシも写真の中から怒られそうな気がした。
まあグラウンドでよく聞いた「タワケッ!」という声も飛んでこなかったので
喜んでいただけたのではないかと思う。

名将といわれる人は、よく「相手」を知っている。
それはまた「名選手」でもおなじことである。

甲子園で通算20勝を挙げ最近引退した宇部商元監督の玉国光男さんは、
石嶺時代の豊見城を見て、栽監督のもとに教えを乞うため来沖したと言う。
その後、玉国さんは宇部でウェイトトレーニングをはじめ、山口の野球に
一大改革をし、準優勝校にまで上り詰めた。

宇部商と沖水は平成2年夏。大野倫投手のとき対戦し、沖水が勝った。
「いやあ、恩返しはできませんでしたけど…」
玉国さんは苦笑いしていたが、栽野球は山口にも根付いていったのである。

将よく将を知る
久しぶりに準優勝の楯を見た。
確かに銀の楯で、「金」ではない。
だが、この2つの楯の向こうに、どれだけの歴史が隠れていることか。

グラウンドもなく、ショートに砂場、外野のフェンスをロープを持った人間が形作っていた時代。
せっかく持ってきた甲子園の土を、アメリカの法律の下、海に捨てられた時代。
出場するだけで、沖縄代表にスタンドから大きな拍手が贈られた時代。
そして、もっと前の、ボールを手榴弾に持ち替えて、幾多の〝可能性〟が戦場に消えた時代…

栽さんは、勝った負けたのはなしをするときに、必ず「先人の苦労」の話をした。

将よく将を知る

筑紫哲也さんが「スポーツでも経済でも、人間のやることで時の政治び結びつかないものはない」と言っていた。
沖縄にとって野球は特別の存在である。
政治より早く復帰し、経済より早く本土並みになり、大臣より早く決勝戦に進出した。

出演した人たちの思いは一人ひとり深かった。





Posted by 家主 at 00:07│Comments(2)
この記事へのコメント
えー・・想いださるるは・・選手が初回守備位置に付き、帽子を手に取り、1塁側・3塁側に向かい・・感謝の気持ちを「礼」で表したのも・・裁野球だったのー

「是非」の論議は出たけども・・
監督のここまで今年も来れた!誰かに感謝したい、率直なる気持ちかのー・・

ベンチ前での体育座りでの次ぎなる指示は、・・選手には動揺を抑えながら、無駄な力が抜け、ホット我に返る最適なる姿勢ではあるまいかの~・・
・・裁野球以前は、まだ、まだ・・目新しい・・ことだったよー気がするぞえー?

人は、誰しも、・・万人・・

「この世に使命、(天命)があるからこそ・・命を授かる!気がしもーすのー・・」


65歳、・・・ん~?・・・これまでの野球での貢献度から・・してもだ!・・
まだ、まだ、もっと、もっと・・いろんな話しが聴きたかったの~・・・

中南米系の色黒で日に焼けた・・
笑うと目がなくなる満面笑顔が目に浮かぶのー・・さよならではなく・・・

            「ごくろーさん!・・ありがとう!・・」を言いたいね!・・・




            
Posted by トンボ。 at 2007年05月19日 20:39
番組、見ました。 
栽先生は、ほんとアイディアマンで、豊見城時代の選抜に向けた上半身裸での練習風景や赤嶺投手の映像が懐かしかったです。
赤嶺投手は制球力がよく、カーブを得意とするピッチャーで、そのフォームは、左足をあげるリズムに特徴があり、華麗というかホレボレする投球フォームで、当時の小中学生はそのフォームに憧れよくマネをしたものです。
栽先生がおっしゃられていた様に、沖縄高校野球歴代No.1のピッチャーでしょうね。

「何かをしたい子になってほしい」という栽先生の味のある言葉が印象に残ってます。
栽先生自身、「何か(野球)をしたい」という信念の下、糸満から中京へ行き自らの実践に基ずく言葉であったのであろう。
県予選を勝ち抜き、甲子園で2つ3つ勝ち、ベスト8・ベスト4・準Vのチームの選手は確かに「何かをしたい子」たちであったし、野球のレベルの高さだけではなく、聡明さをも感じさせる選手達がいた様な気がする。
また、そこには確かな師弟関係があった。

野球をしてなくても、1時間の放送の中でも、栽先生から学ぶものがあった。
ありがとう、RBCテレビ、ありがとう、栽先生。
Posted by 奥武山野球場 at 2007年05月22日 02:01
 
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